「あるもの」「与えられているもの」

 

 第何波というのも、もはやわずらわしくなってきましたが、当初僕が言っていた第二波がいま来ています。どうでもいいのですが、巷で言う第二波は検査数の増加が主たる要因だと思います。

 

 この冬の流行は当初から予想されていたものです。この第二波も春頃から減少して、来冬に第三波が来ます。今冬と同じか若干弱まるような流行が来て、世界のいくつかの国がロックダウンしない感じになるでしょう。その次の冬はどこの国もロックダウンしなくなり、COVID-19(新型コロナによる肺炎の病名)が、人間の一つの死因として認知されるようになり、風邪をひかないための科学が発達、あるいは変革があるかもしれません。社会構造も経済も、これからの2、3年で劇的に変わります。世界恐慌はあるかもしれないけれど、新型コロナで人類が滅亡することは決してありません。

 

 と、いうのが、

 

 当初からお伝えしている普通に考えられる一番あり得る展開です。僕は予知能力者でもなんでもないので、これが当たるかどうかわかりません。ただ、これまでの感染症の歴史や、感染力の強さなどから類推すると、普通はそんな感じのバランスになるというのが、月並みな予想です。これは当初から変わっていないので、これだけ濃厚接触者の検査までしてれば、一日一万人程度の感染者は、想定範囲内です。ウイルスの強さだけから言えば、特に日本人に対しては、そんなに猛烈に強いものではありません。癌は年間40万人、COVID-19は3000人の死者数です。

 

 コロナ禍というのは、SARS-CoV-2(新型コロナのウイルス名)というウイルスそのもの、つまり物質が引き起こしているのではありません。「コロナ」という「情報」に反応している人間の「こころ」が引き起こしているのです。呑み屋を20時に閉めさせているのは、SARS-CoV-2そのものが物質としてそこにいるからではなく、「コロナ」という人間の頭の中にある「情報」が閉めさせているのです。

 

 コロナ禍の終息というのは、SARS-CoV-2がいなくなることではありません。通常それは起こりません。コロナ禍の終息というのは、人間の中の「コロナ」に対する「情報」が終息に向かうことだと僕は思っています。

 

 誤解を恐れることなく言ってしまえば、地球という身体はアレルギー反応を起こしているのです。実際のSARS-CoV-2というウイルスに対して対応しなければならない反応以上に、「コロナ」という「情報」の伝わりかたがおかしいせいで、末端にいる免疫細胞である私たち人類が、過剰な免疫応答をしてしまっているのです。これは西洋医学におけるアレルギーの治療とまったく同じ状況です。アレルゲンから遠ざかることよりも、やるべき修正点がたくさんあります。これからできる薬を心待ちにしているのは、本質的な解決ではありません。それは症状を一時的に抑えるだけです。

 

 だからこそ「情報」に対する反応のしかたによって、このコロナ禍での過ごし方が変わって来ます。

 

 第二波に接して、いままで感じたことのないような、先の見えない不安や倦怠感に苛まれる方が、増えてくるかもしれません。その時の心の構え方を、いま一度思い出してください。

 

 「べき・ねば」と考えていると、思考は「ないもの・失うもの」に意識が向かいます。生きていれば自分に「ないもの・失うもの」は無限に存在します。その思考や言葉が、心身を緊張させ、人や自分を「監視」するようになります。

 

 そのときは、いまの自分に「あるもの・与えられているもの」に意識を向けてください。その後に「ありがたい」とか「〜がしたい」という言葉を思い浮かべると、心身が少しゆるみます。いまだからこそできることがたくさんあります。いまだからこそ感謝できることがたくさんあります。

 

 世界は自分の鏡。目の前に起こるひとつひとつのことに対する、自分自身の反応の集合が、自分の目の前に広がる世界なのです。