コロナ禍で世の中が変わりつつある中、登校拒否児童やうつ病の教師が増え続け、もっとも変わるべきであった日本の義務教育が、元の生活に戻ろうとばかりしていることに、とても大きな危機感を覚えます。この自然界からの警告のもとに、いま人類が学び、変化するべき生活は何か。それは、水と熱、そして科学と報道のリテラシー(理解・分析とその判断)だと感じています。


 この数ヶ月間で、「科学」は大きく後退したと言っても良いでしょう。エビデンス(証拠)という言葉が、あまりに都合良く使われる一方で、専門家が作成した「新しい生活様式」は、1、身体的距離 2、マスク 3、手洗い という、エビデンスに基づかないマスクのほうが、エビデンスのある手洗いよりも重要視された学級会レベルのものが制作されました。


 今回のコロナ禍は、未知のものに対する現代社会のアレルギー反応(適度な反応以上の反応をしてしまう病)のようなものです。結果的には病理学的な問題よりも社会的な問題のほうが大きくなるでしょう。スウェーデンのように適切な反応をしている国もあるのに、多くの国が過剰反応をおこしています。なぜ、社会がコロナ禍というアレルゲンに対して、過剰な恐怖感を抱き、科学的な根拠を無視して行動してしまうほどの過剰応答を起こしてしまったのか、このアレルギー反応の根本原因は何だったのか。また、アレルゲンから遠ざかることだけを考え、根本的な原因考察つまり、食養生などによる体質改善などが進まなかったことも、これから盛んになるであろう、誰が悪かったという戦犯探しの裏で、もっとも深く考察されていくべき課題だろうと思います。


 今回の過剰反応は、SARS-CoV-2というウイルスとして「見えるもの」になってしまったことが一番の大きな要因です。見えたことによって確実に存在するものであるにもかかわらず「未知の恐怖」であるという、人間の恐怖をもっとも煽るシチュエーション(毒・拘束・身体危害)が新興感染症です。これがそういった知覚がなく、なんか新しい肺炎が流行り始めている。という経過であれば、ここまでの大騒ぎにならず、スペイン風邪ほどにもならなかった可能性が高いです。が、そうした議論をしても意味がありません。


 この過程でまず考えなければならないことは、不安な情報に偏りやすいマスメディアの特性と、それを強化してしまう社会の「監視」機構です。特に過剰に悲観的な情報ばかりの報道に無自覚にさらされていると、必要以上の恐怖にかられ、本当に恐れるべき問題に対応できなくなってしまうことが大きな問題です。


 まず、「マス」なメディアは、資本主義社会では営利目的になり恐怖をあおる報道になる傾向があります。一方の社会主義国では支配政党によって編集される危険性があります。特に、コロナ禍ではオリンピックのテレビ枠が大量に空くなどの事情もあったため、視聴者の「恐怖心」を煽るしかないという報道の構造に拍車がかかりました。コロナの感染者数を盛んに伝え、梅雨と台風の到来を過剰に煽る「コロナと天気ばっか!」な報道が続きました。この背景には、以前にも書いた現代社会の「監視」が関与しています。公園の禁止事項は増え続け、部分だけを取り出しては批判する、文句言ったもん勝ちな世界では、少しでも悲観的な情報を流し批判を免れる。医療訴訟を恐れる医師が、治療のはじめに起こりうる最悪の副作用を述べることから始まり、責任回避から契約する。本来伝えるべきことを言える人が少ない社会になり、結果的に垂直方向(政治家など)も水平方向(民間、自粛警察など)もどっちも信じられない、すべてを監視だけする窮屈な日本社会になってしまいました。そんな「監視」の弊害についても私たちはコロナ禍を期に考え直すべきでしょう。


 こうした保身的な不安を煽るだけの報道から身を守るためには、テレビの報道を見ないことが一番ですが、それ以上に、一つの不安な数字を見たら、「他の数字」と対照することです。例えばコロナの感染者数が何万人となっても、死亡者数をみて、違う疾患の死亡者数と比較する。コロナvsインフルエンザといった小さな枠にとどまらずに、ガンや自殺者数などをみてみましょう。コロナは今後多くても5千人前後の死亡者数にはとどまるでしょう。それに対し、ガンは年間40万人、自殺者数も減ったとはいえ毎年2万人です。それを考えると、いかに日本社会が新型コロナに対してだけ過剰反応をしているかが分かると思います。微々たるエビデンスしかないマスクをして疲弊するよりも、心身ともに充実した生活を送り、白砂糖や乳製品に危機感を持つほうが、よっぽど重要なことだと僕は考えます。マスクのエビデンスに関しては次回書きます。


 無論のこと、だからといって新型コロナは気にするな。と言っている訳ではありません。大切なことは、報道というものは、恐怖をあおるような報道が流れやすい性質がある。ということを自覚し、常に批判的に受け取る習慣を持つことです。ニュースを見ていると、世の中はどんどんと悪い方向に進んでいるように感じてしまいますが、第二次世界大戦後の80年ちかく、大国同士の間に戦争がない今の時代は、人類史上もっとも安全で平和な時代なのです。1986年に6万4000発あった核弾頭は15000発まで減り、自然災害による死亡者数は100年前の6%にまで減っています。環境破壊も改善していて、一人当たりの二酸化硫黄の排出量は1970年の36%、オゾン層の破壊は70分の1になっています。飛行機や交通事故の死亡者も激減、世界中の88%の子供が予防接種を、90%の女児が初等教育を受けられるようになりました。5歳までに30%が死んでいたエジプトの現在の乳児死亡率は2%程度で、1960年代のフランスやイギリスよりも低くなっています。


 こんなに良いことがたくさん起こっているのに、メディアはそういった良い情報よりも、災害による死亡者数だけを伝え、悪いニュースばかりのように報道します。例えば乳児死亡者数が「年間280万人もいて、11秒に1人が死んでいます!」という報道はありましたが、「70年前は1440万人だったのが、現在は280万人になりました!」という報道はほとんどないのです。


 結果的に、資本主義社会ではメディアの報道に触れれば触れるほど、世の中に対して悲観的になる傾向が生まれています。世の中はまだまだ悪いのですが、だいぶ良くなっています。けれど、メディアは悪いニュースの「部分」を抽出して届ける。まずは、マスなメディアのネガティブな報道に触れたら、その裏側をみる癖をつけて自分の心のストレス耐性をあげてください。それが現代社会が学ぶべき、報道によるネガティブ・アレルギーから脱却するための最初の方法なのです。恐怖は判断を鈍らせるのです。次回は科学の適切な考え方について考えていきます。