こころの熱について

 

 現代科学は驚くほどの進化を続けていますが、いまだに「こころ」と「からだ」の関係という、私たちがもっとも関心のある日常的課題について、まだほとんどのことが解明できていません。ところが、

 

私たちは日々、からだとこころの関係を体感することができます。二日酔いでやる気がしない、生理前の過食やイライラや、緊張したときに下痢になる過敏性腸症候群も、こころとからだが密接に関係している実体験の一つです。科学では、こういった症状の原因がわかっていないため、結果である症状を消す対症療法薬はあれど、治療薬はほとんどありません。一方、自然の摂理を利用して培われた漢方医学には、このようなこころとからだの両方が関わる、日常的な症状に対する有効な治療法がたくさんあります。

 

 今回お話する「こころの熱」も体感できます。例えば、「怒り」を覚えると、体中の筋肉が緊張して、体内、特に頭に向かって「熱」が生じます。そのため、精神的なストレスによって、「熱」が原因となるアトピーやじんま疹、あるいは過食や月経前症候群が増悪することが多いのです。この「熱」が、アレルギーや感染症の重症化につながることがあり、前回は食養生の面からの「からだの熱」について書きました。一方で、こころとからだが密接に関係している人間の身体について、今回は「こころの熱」に焦点をあててみます。

 

 まず、こころの熱が生じる仕組みは、摩擦熱のようなものだと考えてください。それは、自分が直面している現実と「自分の設定」のズレによる摩擦と緊張です。「人とはこうあるべき!」と思って頑張って生きているのに、目の前の現実は必ずしもその通りにはなりません。生きている限り、嫌なこと・しなければならないこと、自分に「ないもの・失ってしまうもの」は、探し始めれば無限にあります。自分は「正しい」はずなのに、社会が、家族が、あるいは自分が「正しくない」。自分が設定しているものと現実との摩擦熱が生じると、「こころの熱」が発生します。

 

 人間というのはつまるところ、「正しい」か「正しくないか」ということで、古今東西未来永劫悩み続ける生きものなのです。そんなに永らく悩み続けている「正しさ」なのに、それは人間が作り出した幻想ともいえる曖昧なものなのです。わかっちゃいるけど正しく生きたい。正しく生きさせたい。それが「こころの熱」。

 

 もちろん、「正しく生きる」ことはとても大切なことですが、その価値観をあまりに強く設定して、他人や自分自身に強要してしまうと、そこに摩擦熱が生じます。例えば、子どもが勉強しない、時間通りに準備をしない、夫が手伝わない。友達が、社会がおかしい。私はだめだ。「こんなはずじゃないのに!」。そういうときに生じる「こんな」という「自分の設定」とのズレに生じる摩擦熱は、「自分の設定」が堅固であればあるほど強く生じます。

 

 こころの熱を発生させないために重要なことは、どんな状況であれ、その熱自体を発生させているのは自分自身であり、外部環境のせいにしてもしょうがない。という自覚です。いつどこでも、こころの「熱」を発生させている「自分の設定」をとりはらってしまえば、いまこの瞬間に「怒り」から解放されることはできるはずなのです。それが完全にできるようになることを仏教では解脱と言います。

 

 あらゆる怒りから解放されるということは、多くの宗教の最終目標です。もちろん、解脱なんてそんなに簡単ではありません。ただし、負の感情をある程度、コントロールすることはできます。それにはまず、自分のこころの中に生じる熱を認知することから始まります。食養生に、万人に共通する正解がないように、生き方に関しても万人に共通する正解はありません。ところが、自分にとっての正解はあります。それは自分自身の野性と症状によって判断すると良いということをこれまでにも書いてきました。こころの中に怒りや悲しみなどの負の感情が生まれた時、つまり、「こころの熱」を感じたとき、その原因を自分がつくりだしている「自分の設定」を見直すことが「熱」を発生させないコツです。怒りが生じている時は、「自分の設定」を他者あるいは自分に強いている証拠です。自分の「正しさ」を他者や自分自身という他者に押し付けることを止めることで、こころの熱は冷やされます。

 

 子育てのことを考えてみましょう。多くの親子の喧嘩の原因は、「勉強」と「遅刻」つまり、子どもが「親の思い通り」に動かないことです。そこで、自分の幼少期を思い出してみてください。子どものころに感じたストレスは、親の価値観に自分の価値観を合わせようと動かされたことだったのではないかと思います。逆にそこに安心感を覚えた人もいるかもしれません。どちらがその子どもにとって良いのかは、その子どもを見守るしかないのですが、どうせ失敗するなら、社会に出る前の幼少期に、たくさん失敗を経験させてあげるのが良いと僕は思います。宿題をやらなかったら、宿題を忘れて学校で怒られればいいし、遅刻したら遅刻させて学校で恥ずかしい思いを体験することも大切です。失敗から自発的に改正していくのが学びです。それを親の怒りを持って、その場だけでも怒られないように子どもを力づくで動かさせることは、対症療法でしかなく、問題の解決には至らないどころか、子ども自身が自分で解決するチャンスを失っているのです。さらには、家庭内に「熱」が生じ、一つの体であるような家庭全体が、不健康になっていくのです。

 

 児童公園での増え続ける禁止事項にみるように、いまの世の中は「監視」に包まれています。それは緊張と弛緩の陰陽バランスが「緊張」のほうにかたより過ぎてしまった世界です。ちょっとした例外を、それがすべての過ちの象徴かのように取り上げ誹謗中傷した人は、正当化される(と思い込んでいる)。つまり、「文句いったもん勝ち」の世界です。そういう社会が自分たちの生活を窮屈にしていることに、そろそろ気づいてほしいところです。コロナ禍はそうした時代の転機として振り返られる時が来てほしいと思っています。

 

 アウトドアで起こる数少ないクラスターを取り沙汰してだめだと言っていたら、世界中の飲食店は閉鎖するべきです。99%の人に恩恵を授ける知恵であったとしても、1%の例外を責められる。そういった「監視」によって現代社会が失っているものはとてつもなく大きなものです。「監視」と「信頼」といった陰陽バランスの乱れが、熱っぽい時代を生み出し、「監視」というこころの熱が、コロナ禍における過剰な社会反応を引き起こしました。これはアレルギー(攻撃しなくて良いものに対して過剰に反応してしまう症状)の治療などとも共通する問題があります。いまの地球という身体は、からだじゅうにじんま疹が出ていて、アレルゲンから遠ざかり、抗アレルギー薬という対症療法薬を待っている人のように見えます。問題はもっと奥深くにあるのです。

 

 とにもかくにも「監視」の拡大が止まらない。この「監視」こそが「こころの熱」を生む最大の原因であり、現代社会がもっとも病んでいる部分です。監視カメラの多い場所ほど、クラスターの発生率は高い。感染症のあとの最大の脅威は「戦争」です。監視や正しさの押し売りが「こころの熱」を生じさせ、個人にとっても社会にとっても、COVID-19を重症化させる一つの大きなリスクになっていることを忘れてはなりません。

 

 目の前ですぐに数字や文字などの形となって現れるものに対して、過剰に反応してしまっているのが、現代社会です。その根底には、もっと大きな取り扱われなければならない問題が、山のように隠されています。次回からは「見えるもの見えないもの」、すなわち「科学」の正しい取り扱い方について考えていきたいと思います。