コロナ禍は、人類がイデオロギーを超えて世界中(もちろん限られた文明社会の中の話ではありますが)の人々が議論する人類史上初めての事態です。誰が正しいとか悪いとかいう戦犯探しのような小さな話を超えて、いま何が起こっていて、このことが何を意味しているのか。ということをちゃんと向き合って話し合うことこそが、いまを生きる僕らがするべきことなのではないかと感じています。

 2020年10月現在、アメリカとインドの感染者数はほぼ同じですが、死亡者数はインドがアメリカの約半分です。またブラジルは、死亡者数でインドを上回っています。平均年齢や医療制度の問題も関与しているとは思いますが、以前お話した「熱」の問題、つまり動物性脂肪摂取量の問題が少なからず関係していると思います。それは「痰湿(飽食の時代以降の病に特徴的な脂や水の滞留を示す証)」の状態が見られる東洋医学的所見と矛盾しません。科学というものはそうした観測者の推測から、現象全体のうちの、ある「部分」を抽出して限定的な条件設定をすることから研究が始まります。

 この数ヶ月間で、人類がいかに「科学」の適正利用ができていないのか。ということが露呈されました。エビデンス(証拠)という言葉が、あまりに都合良く使われる一方で、科学の専門家たちが作成した「新しい生活様式」では、1、身体的距離 2、マスク 3、手洗い という、エビデンスの乏しいマスクのほうが、エビデンスのある手洗いよりも重要視されました。作成された方を責めるつもりはありませんが、これはマスク配布の政策と結びついた不適切な「科学」の使い方の象徴として歴史に残るでしょう。これからなんらかのエビデンスが作り出されるでしょうが、この生活指標が発表された時点では、科学的でないことは揺るぎようのない事実です。

 いま、世界の国々で、もっとも科学的に動いている国がスウェーデンです。マスクもロックダウンも、科学的な根拠がないとしました。しかし、本質はそこではありません。新型コロナの感染力と致死率から、このウイルス感染の長期化をいち早く推測し、医療崩壊を防ぐために、高齢者や基礎疾患を持っている人に対しては、集中治療を行わない。という科学に基づいた選択を、国民の支持のもとに遂行しました。これは、科学の限界を、科学者が科学的にしっかりと認識した政策です。科学は素晴らしい叡智なのですが、現代社会は、科学を適正に扱えていません。そのことが、今回のコロナ禍ではっきりしたことで、私たちが学ぶべき教訓の一つなのではないでしょうか。

 

 近年の科学のめざましい発展と、特殊なオカルト集団の報道により、現代人はテクノロジーによって同定したり数値化できるもの、つまり「見えるもの」しか存在しない、信じないというような風潮が根付いてしまいました。それを象徴するフレーズが「エビデンスがない」というセリフです。ところが、実際の世の中は「見えるもの」より「見えないもの」のほうが圧倒的に多く、エビデンスのあるものの方が圧倒的に少ないのです。

 

 医師や高学歴な方に多いのですが、「情報」に「野性」が圧倒され、科学だけを信じて、「エビデンス」を自己正当化の武器にしている人が結構います。あたかも医療には科学以外のものは必要がないように語ります。笑顔も優しさも医療には必要がない。「漢方にはエビデンスがない」と未だに言い張っている医師は、自分の不勉強を棚にあげているだけです。漢方のエビデンスは刻々と増えていて、科学が人智を追いかけているのが実情なのです。僕は日常的にその効果を目の当たりにしているので、疑う余地もありませんが、単純に考えても、効かない医療が何千年も続くわけがない。と思わない人がいることのほうが不思議でなりません。

 

 「エビデンス」という言葉が、非常に都合よく使われるようになってしまった時代だからこそ、しっかりとした情報が必要であり、その情報の信憑性を判断するために、「科学」というものがどういうものなのかを、しっかりと知る必要があるのです。

 

 現在の人類は100年前のスペイン風邪のときと同じことを繰り返しています。つい一年前まで、マスクをしている東洋人を、欧米の科学者たちは「エビデンスがない」と嘲笑していました。その科学者たちが、今はマスクの義務化のためのエビデンスを作り出そうとしています。人は恐怖に包まれると判断力が鈍ります。ウィズ・コロナの時代、世界中の人々が、いつまでマスクをし続けるのか、あるいは、どのような理由ではずしていくのか。それは、とても興味深いところです。

 

 まず、「科学」やデータを考えるときに忘れてはならないこと、それは科学的な結果は「部分」でしかないということです。科学実験の結果は、観測者がある意図を持って非常に限定的な条件設定をして、現実世界の現象の一部をトリミング(切り取り)したことによって生み出される「部分」でしかありません。実際の現象というものは、「部分」が集まり、相互の関係性が加わったものが「全体」なのです。人間の臓器はアミノ酸からできていますが、アミノ酸という「部分」が組み合わさって、タンパク質として臓器を形成し、筋肉や心臓が動くようになり、精神が生まれ、愛や憎しみ、喜びや悩みが生まれてくるのです。それらは、アミノ酸だけを研究しても、「全体」を説明することはできません。

 

 つまり、やり方次第で、研究者の都合の良い方向にエビデンスを出すこともできます。例えば、マスクについての感染予防効果は、今のところ、ウイルス検査をしている医療機関でのみ、その効果が証明されています。コロナやインフルエンザの検査は、患者さんの目の前で鼻の奥に棒を入れる検査なので、当たり前と言えば当たり前なのですが、そんなふうに有意差が出そうな「部分」のトリミングを探せば、世界中のいたるところに「エビデンス」は出てきます。しかし、重要なことは、それらの研究では、マスクのデメリットについての全体的な研究がなされないことです。これからある「部分」において、マスクが有用だとするエビデンスは必ず出てきますが、多くの方がお気づきなように、マスクは心身にとって、どう考えても悪いものです。科学的なスウェーデンは、マスクによる害のほうが大きいだろうと公言しています。もちろん、「部分」の解明がなければ、全体の解明にはつながらないのですが、「部分」だけの情報に翻弄されて、自分自身の感性や野性を失ってしまわないように注意してください。今回のコロナ禍の世界的な社会現象は、SARS-CoV-2という最小単位の「部分」が、「見えるもの」になったことで起こっています。新型コロナも無数にあるウイルスのうちの一つです。「部分」にとらわれ過ぎて、「全体」が見えなくなっているのです。こうした現代社会の病は、前後の文脈という「全体」を排除して、単語単位の「部分」だけを取り出して誹謗中傷するような人や報道の中にもみて取れます。

 

 ウィズ・コロナのいま、私たちが持つべき科学的姿勢は、科学の限界もしっかりと認識することです。音楽の美しさのすべてを科学で証明することはできません。けれどそれは、多くの人が感じている事実です。僕は音楽や漢方を通じて、科学の限界を学びました。科学を信じて用いてはいますが、一方でその限界と、それを都合よく使う人たちに対して、常に批判的な姿勢を持って医療に取り組んでいます。いま、「エビデンス」という言葉の意味が非常に大きく揺らいでいます。科学的な証拠のなかにも、常にグレーゾーンがあります。こんなにまで複雑な世の中は、人類ごときの二元論的な言語だけで、全てを説明できないのは当たり前なのです。そのことをもう一度謙虚に再認識して、「科学」というものの限界を知りつつ、正しく科学に向きあっていきましょう。いまのコロナ禍は、人類に自然に対する畏敬の念と謙虚さを取り戻させる役割があるのではないかと僕は考えています。自然の恵みである温泉の水を、温泉施設拡大のために循環濾過して使おうとすると、そこにレジオネラ菌という細菌が発生して肺炎を起こします。肉を食べすぎたり、情報に囚われすぎたり、効率を考えすぎたりした人類の陰陽バランスを、新型コロナは調整するために現れた自然現象なのかもしれません。。

 

 次回は実際の具体的な科学実験の例をあげて、その特性や限界、漢方薬の科学的証明の難しさなど、科学の捉え方について考えて行きたいと思います。