生物学者の福岡伸一さんの共著『ポストコロナの生命哲学』は是非おすすめしたい一冊です。コロナ禍が情報への過剰応答だということは僕が言っていることと同じだと思います。福岡さんとは2016年に恵比寿で行われた「健康音楽」で僕が演奏をした時に、少しだけお話させていただきました。とても穏やかな方で、僕が心から尊敬している科学者のお一人です。真に科学的な科学者は、自然に対する畏敬の念を絶やしません。

 言葉の巧みな方が説明するとこんなにもスッと納得できるのだと痛感します。以下、https://toyokeizai.net/articles/-/453989からの転載になります。

 マスクだワクチンだなんていう小さな問題が、こんなに大きな問題になってしまう今の世の中。大切なことはその真偽ではありません。膨大なピュシスがうごめいているこの世の中を、人間の限られた情報(ロゴス)だけで対応しようとしている。そのこと自体が人類にとってもっとも大きな問題なのです。拡大し続けようとしすぎること、動物を食べすぎること、情報を取り入れすぎること。こうした問題がコロナ禍のおかげで如実になりました。環境問題はすぐそこまで来ています。

 自然に対する畏敬の念を取り戻しましょう。僕らはピュシスの中で生かされている。ピュシスの歌に耳を傾けましょう。

 

体を「スマート化」することの危険性

 私は、新型コロナウイルスによって明るみに出た種々の問題は、人間が生み出したロゴス(論理)と、そのロゴスと対極にあるピュシス(自然)という概念を用いて理解することが必要だと考えています。例えばこのコロナ禍で、オンライン化が一気に進みました。あらゆる場面で、技術のスマート化(=ロゴス化)が促進され、私たちの生活は便利になる一方、注意すべき点も含まれていると思います。この事態を、ロゴスとピュシスの観点から掘り下げてみたいと思います。

 スマート化が、人間の問題解決能力(力仕事や計算力や計画力といったタスク、あるいは移動、配送、通信、記録、解析といった仕事など)を外部にさらに拡張する・展開する方向に進むことは、一定のコントロールや規制は必要なものの、文化・文明の進むべき方向として、人類が自らの生活を豊かにする方法として選び取ったものだと思いますし、この方向へのモメンタム(大きな潮流)を抑制することはできないと思います。

 しかし、このスマート化が、人間の内面、つまり精神や身体性に向かって行われようとすることは大変危険なことだと考えています。人間の内部にあるものは、ピュシスそのものですから、これをロゴス的に制御することは、生命を大きく損なうことになります。生命を、単純な図式で、ロゴス的に解釈すると、ピュシスとしての生命から大きなリベンジを受けかねません。生命はロゴス的マシナリー(機械)ではありませんから。歯車を1つ大きなものに交換すれば、機械全体が効率よく回るかといえば、むしろ生命現象では逆のことが起きます。歯車を大きくしたことの無理が、全体の流れに歪みを波及させてしまいかねません。ある反応を阻害したり、ブロックしたりすれば、痛みや不快感を一時的に軽減することができるかもしれません。

 しかし、阻害やブロックは、ピュシスとしての生命体をむしろ逆の状態(阻害やブロックに対抗する方向)へ導きます。薬が効かなくなったり、ドラッグの使用量が増したり、より中毒性の高いものに向かうのはそのためです。あるいは、抗生物質で、細菌を制圧したはずなのに、抗生物質という大きな網をかぶせて細菌を抑え込んだことが、逆に今度はその網の目をかいくぐって、抗生物質に抵抗性を持つ変異株を選抜することに手を貸してしまう。

 その変異株を制圧するために、新しい抗生物質が開発されると、さらに強力な変異株が選抜される、といういたちごっこが繰り返され、今ではどんな抗生物質も効かない厄介な細菌が存在しています。これがスーパー耐性菌の出現ということです。これらはすべて、ピュシスからのリベンジです。

ワクチンをどう考えるか?

 新型コロナウイルスのワクチンに対しても、長い射程を持った視点が必要だと思います。

 確かにワクチンは、社会的不安を解消する有力な切り札になりえますが、それを万能視してやみくもに礼賛する態度も、逆に、アレルギー的な拒絶反応を示す態度も、ともに冷静さを欠いていると思います。新型コロナワクチンはワープスピードで開発されたがゆえに、まずは有効性の確認と慎重な副反応の検証に注意を向けるべきです。

 ワクチンは、現在、世界中で奪い合いとなっています。本来、2回投与してしっかりと免疫反応を惹起(じゃっき)させるべきところを、よりたくさんの人に接種することを目指して、1回投与で済ませて、まずは広範囲の普及を優先しようとする動きもありました。

 これも議論が必要なポイントです。ワクチンによる免疫賦活作用が不十分なまま、広く、浅く、ワクチンの網の目をかけることで、かえって、新・新型ウイルスへの変化に手を貸してしまいかねません。

 つまり、ワクチンの作用をくぐり抜けてしまうような、変異株の出現──細菌でいえば耐性菌の出現──を促してしまうような逆効果の可能性もある。そうするとまたワクチンを作り直さねばなりません。いたちごっこになります。ピュシスの可変性、変幻自在さを過小評価すべきではないということです。

新型コロナウイルスに対抗するには時間がかかる

 しかし、これは、私たちの体が可変的、変幻自在だということでもあります。私は、ピュシスとしてのウイルスに真の意味で対抗できるものは、ピュシスとしての自分自身の柔軟な免疫系だけだと思っています。

 ウイルスとの共生とは、ウイルスの感染性と宿主の身体性のせめぎ合い、つまり両者の間に動的平衡が成立するということにほかなりません。それには時間がかかります。

 ワクチンによる免疫系の賦活化は有効なコロナ禍対策になると思いますが、その前提として、まずはピュシスとしての自分の身体性を信じる、ということが基本になると思います。

 身体性を信じる、というのは、ありのままのピュシスを受け入れるということでもあると思います。ピュシスは自然そのものですから、ノイズや乱れ、変異、濁りや汚れがつねに含まれています。現代の高度にスマート化された社会では、これらをロゴスの力で浄化してしまいたい、という清潔さへの異常な希求が見られます。

 ピュシスとしての自分の生命、身体性と言ってもいいと思いますが、これを今一度、虚心坦懐に見つめ直すことが、新型コロナウイルスに対抗するための“出発点”になると思います。

 

 
『ポストコロナの生命哲学』(集英社新書)