科学というものを考える時に大切なことは、それが信仰に基づく宗教的な営みだということです。
そのことを前提にして考えることが、大切なことだと私は考えています。科学者は科学的で、芸術や宗教家は非科学的だ。という風潮を感じることがありますが、それは、科学主義的なフィールド、観念形態(イデオロギー)の中から、ものごとを観ているだけなのです。つまり、科学起源説のようなものです。まず、科学があって、科学じゃないものがある。という考え方です。実際の世のしくみは、そうではありません。
自然科学者がやっていることは、目の前に起こる一見無秩序に見える事象に対して、その背後には数理的な秩序があるのではないか。という予感に基づいて仮説を立て、まずは限定的な条件下で成立する「しくみ」を発見するということです。その発見を徐々に拡大していきながら「全体」の原理に近づいていく。という営みが「科学」なのです。つまり、その予感は、仮説を立て始める段階では、その時の人間には、「まだ見えぬもの」なのです。それにも関わらず、この数理的秩序があるという先駆的な予感を信じているのです。芸術家が「美しさ」の、宗教家が「神」の存在を信じているのと同じなのです。「科学」が信じているものは、数理的秩序の存在なのです。それが科学の「宗教性」です。
キリスト教の弁神論では、人間は有限な存在であるにも関わらず、無限という概念を持っている。それは無限者によって、有限な人間の中に備えられたものに違いない。だから無限者は存在する。という形で、神を証明します。神は神という言葉があるから存在する。と言っているのです。私は特定の宗教を持っているわけではありませんが、自然法則の重要性を信じています。それは情報や体験として、自然法則の存在を実感してきたからです。音楽や芸術に感じる美しさに、自然法則やリアリティーとの関連性を感じてきました。それは数理的な秩序では、説明しきれないものがあります。医師としての私の職務は、その予感と検証に基づいて、自然と科学の情報を患者さんに「伝える」という職業なのです。科学にしても、音楽にしても宗教にしても、「見えないもの」への信仰が起源になければ、その行動は始まらないのです。
無論のこと、私は真に科学なものを信じて用いています。真に科学的なものとは、適切な方法によって実証されたものです。科学的実証とは、恣意的な「部分」の抽出ではなく、適切なトリミングによってなされ、実際の臨床においても、相応な効果を確認できた場合のみです。現在の新型コロナに対するワクチンは、有効率95%という情報と、ワクチン先進国における現実の間には、乖離を認めます。先日公開された有効率を算出した論文には、不自然なトリミングが検出されています(後日掲載いたします)。そうした、実証されていないものを自分の体内に接種することは、一概に悪いことだとは言いませんが、それを接種するということは、科学を信仰しているという自覚の上で、接種をするべきだと思います。
つまり、新型ワクチンを私は信仰しているのだ。という自覚です。その自覚があるのであれば、接種することを止めはしませんが、その確信がないのであれば、少なくともあと3ヶ月程度は、現実世界における実証を待つべきだと考えています。