さまざまな誤解が生じているようなので、マスクとコロナと花粉症を短くまとめました。

 

<要約>

 花粉症と同様、新型コロナの発生は、これまでに書いてきた水や熱などの環境問題をはじめ、自然の摂理を無視し続けてきたことと無関係ではありません。僕らの世代は、飛沫どうこうとか、どこの県や国が正しいなんていう超限局的な「部分」で監視しあっている状況ではないのです。監視は心の熱を生み出し、そのこと自体が事態を悪化させていきます。西洋医学は「自然を制御する」医学、東洋医学は「自然を利用する」医学です。どちらも長短はありますが、現代社会は科学を盲信しすぎています。特に未知のウイルス感染症や自然現象による病の治療は、自然の力を利用し、臨床の現場で発展していく東洋医学に圧倒的な軍配が上がります。
 花粉症もコロナ禍も同じで、この自然界からの警告はすぐに消えることはありません。家畜やその餌となる遺伝子組み換え作物の大量生産と大量消費、それに伴う生態系や在来種の喪失、監視の増大による教育や医療の衰退、無駄な仕事による長時間労働や遅い食生活、肥大化しすぎたグローバリゼーション。ワクチンやマスクなどの対症療法は適切に用いるべきですが、そうした根本原因の改善によって、人類自体の体質変化を実現することがなければ、事態は刻一刻と悪化していくのです。自然への畏敬を取り戻し、その恩恵によってこの警告から守ってもらう姿勢こそが、今の僕らに求められている本当に大切なものなのではないでしょうか。

 

<本文>

 僕はいまだにコロナ対策に対するマスクの必要以上の着用には反対ですが、反対する理由がどこかの前大統領のように「俺は強いから大丈夫だ」とか、「コロナなんか大したことない」「国が個人の自由に介入するな」といった新型コロナを過剰に軽視する方や、個人の自由を主張する方々とは全く違います。ちなみに花粉症対策のマスク使用はメリットも大きいので推奨しています。当初から混雑している公共機関利用時や幼稚園のお迎えの時はマスクをしていますし、今も昔もマスクをしている人を責めたことは一度もありません。この前は6歳の娘が4枚もマスクをしていたので、大笑いしましたが、マスクが自分の心身にとってどんな意味を持つのかは、自分自身の感性や野性で判断してもらいたいと思っています。いつも正解はひとりひとり異なるものです。僕自身はマスクをほとんどしませんが、手洗いは人一倍して、換気や密な状況には、最大限の配慮をして、予防のための漢方薬も飲んで、食養生や睡眠をこれまで以上に大切にしています。新型コロナは適切に警戒し、自然界からの警告に対して、誠実に謙虚に現代生活の問題を考えていきたいと思っています。コロナ禍が沈静化しつつあるこれからが、本当の意味での重要な時間になると考えているのです。

 

 99.9%の人が野外の単独歩行中でもマスクをしている異常事態の中であっても、僕がマスクをしないで診察を続けている背景には、マスクによる表情の喪失による医療上のデメリットが大きいこともありますが、それ以上に、マスクやワクチンはあくまで対症療法でしかなく、どんな病にも常に原因があることを忘れてはならないという信念があるからです。それは西洋医学における対症療法に対する矛盾に悩み続けて、東洋医学を学ぶようになった理由でもあり、医師として常に念頭に置いていることです。対症療法は必要に応じて一時的に用いることは良いことですが、症状を消しただけで、病が解決したと思ってしまう患者さんや医師がとても多いのが現状なのです。対症療法であるワクチンの到来で安堵している人類に、とても大きな危機感を覚えます。コロナ禍はこれから訪れる食糧危機をはじめとした環境問題の序章です。飛沫という超限局的な「部分」にばかり目をとらわれて、ものごとの「全体」を見失っている人類に、一刻も早く、そのことに気づいてほしいと切に願っています。

 

<花粉症とコロナ禍>

 

 日本特有のスギ花粉症は、経済のために日本の生態系を無視して広葉樹林を切り崩し、膨大な量のスギを植林したことに端を発しています。どんなに逃げ回っても、あと数十年はこの膨大な量のスギ花粉は続きます。その花粉症に対して、西洋医学では心身に負担のかかるマスクやメガネをつけて、抗原から逃げ回り、免疫抑制薬である抗アレルギー薬を毎年内服し続けます。症状を消した代償として、その副作用で気虚になり、だるさや眠気、抑うつ状態になり、免疫が落ちるのです。マスクを推奨するなら抗アレルギー薬を禁止したほうがコロナ禍にとっては良いことです。対症療法で症状が抑えられると、多くの人はその病の原因となっている生活を改善しないままに、免疫抑制薬を飲み続けるので、症状は年々ひどくなっていき、副作用による他の病が増えていくのです。

 

 ここで西洋医学が忘れているのは、花粉に反応しない人もいて、その人と花粉症の人の間にはどんな原因があるのか。と考えることです。患者さんの苦しみは、花粉のせいではなくて、自分の生活が招いた心身のせいなのです。その差異について考えることは、科学という手法では、方法論上難しい事情があります。

 

 生まれ持った体質によって差はありますが、病の原因は主に食事と睡眠にあります。他人や気候など、他の部分にあったとしても、多くの場合、それを変えることはできません。病は常に自分を変えなければ治らないのです。

 

 東洋医学では、漢方薬を用いることによって、自分の症状が自分の生活のどこに原因があるのか。ということを判定できます。花粉症には、動物性脂肪や水分の過剰摂取、自然塩の不足、遅い睡眠や睡眠不足などの「クウ・ネル」に原因があり、人によってその組み合わせが異なるので、正解はひとりひとり違います。そうした考察なく対症療法を続けることで、問題は刻一刻と深刻化していくのです。花粉はなくなりません。そして花粉症のような自然に起因する病は、自然の力を借りることによって、治していくことができるのです。

 

 同様に、新型コロナウイルスがこの世からなくなることはおそらくありません。これから変異株も次々に生まれるでしょう。そうしたウイルスとの接触を生涯避けることは不可能です。マスクをして、ワクチンを打つことは悪いことではありません。けれどそれは対症療法でしかないことを忘れてはいけません。ワクチンによる抗体がどれだけの期間続くのか、変異種がどれぐらいの頻度で発生するのかも誰にもわかりません。毎年流行する新型コロナに対する対症療法薬も生まれて来るでしょう。一番大切なことはそのような対症療法ではありません。それよりも、あらゆる種類のウイルスに接触したとき、重症化しない生活とは何なのか。新型コロナがここまで猛威をふるってしまった原因は何なのか。それは他の病と同様、現代生活の食事と睡眠に原因があるはずです。

 

 それを考えなければ、花粉症のように症状はどんどん悪化していくのです。医学の分野においては、自然現象に起因する病に対しては、その自然を制御する対症療法よりも、漢方のような自然の力を利用した医学のほうが、長期的には有効なのです。まだまだ未熟ですが、両方の医学を知る僕は、アレルギー患者さんの治療を経て、強くそう感じています。

 

 西洋と東洋というように世界を二分するのはだいぶ乱暴ですが、話を短くすると、東洋思想は人間を自然の一部と考え、「自然の恩恵を利用する」という思想体系があります。一方の西洋思想には、「自然を制御する」という人間と自然を分離した思想があります。その終末像が「ゼロコロナ」という思想です。自然の脅威はそんなに甘くない。人類は自然のシステムを覆せるほどまでには発達していません。今の科学や人類は「部分」に対して盲目的になりすぎて、「全体」を見失っています。飛沫なんかよりももっと大切な問題があるのです。

 

 人間と猿のもっとも大きな違いは「笑顔」です。飛沫という「部分」に限局すれば、マスクにエビデンスがあるのは間違いありません。エビデンスなんて現象のトリミングの仕方でいかようにもなるのです。エビデンスがないと言われ続け、嘲笑されていたマスクが一転、今はエビデンスまみれになっている訳ですが、やはりマスクによってウイルスから完全に遠ざかることは不可能に近い。そんなわずかなメリットのわりには、デメリットがあまりにも多くあります。口呼吸や肌荒れはもちろんのこと、人間にとって不可欠な笑顔でのコミュニケーションも失われます。うつ病の発症はおろか、恋愛率や出生率の低下も招くかもしれません。そのような代償を払ってでも、逃げきれないウイルスとの接触を少しでも避けるために、人類は一生マスクをし続けるのでしょうか?本当に大切な問題は、そこではないと僕は思っています。

 

 医療には、サイエンスとアートが必要だと言われて随分経ちます。医療の現場における笑顔の重要性は言うまでもありません。検査数値や問診という情報に対して、一律の薬を出している医療は、これからAI(人工知能)に置き換わるでしょう。人間が行う医療において重要なコミュニケーションをするために、僕はこれからも診察室でのマスクをするつもりはありません。もちろんその価値観を強要するつもりはないので、いつもマスクは用意しています。パソコン画面による遠隔診療も早くから取り入れています。全ての人に僕の診療理念が通ずるとは考えていませんが、飛沫よりも笑顔を優先した医療を求めている方が少なからずいらっしゃるので、僕はその信念に基づいて医療に携わっています。それは「部分」にとらわれて、「全体」を見失っている可能性について、患者さん患者さんが考えるきっかけにもなると思っています。健康にとって、新型コロナを対症療法で避け続けることよりも、大切なことがたくさんあることを、肌で感じてもらえると思うからです。

 

 新型コロナの発生には、人類が自然の摂理を無視し続けてきたことに理由のひとつがあります。さらに、コロナ禍という社会現象は、地球という身体の免疫細胞を担う人類やその情報によるアレルギー反応(過剰免疫応答)だと考えています。新型コロナによって人類が滅亡することはありませんが、その事態そのものについてもっと考えなければならないのではないでしょうか。僕らの世代は飛沫どうこうとか、どこの国が正解だったかなんていう、超限局的な「部分」のことで騒いでる場合じゃないのです。もっと大きな「全体」が崩れ始めている。そのことについてもっと考え、地球の構成要素である私たち一人一人が、自然に対する畏敬の念を取り戻し、生活を改善していくべきなのです。自然保護や、自給率の向上、在来種の保護、過剰に密集した生活や、閉鎖空間での活動、過剰な畜産の消費について、できる限りのことを本気で実践していかなければならない時代に突入しているのです。新型コロナはそうした人類の歪みを露呈させただけなのだと僕は思っています。