コロナ禍とアート

 

 お茶の先生をしていて、交友関係に多忙を極めていた患者さんが、コロナ禍になって急に暇になったとき、「私の用事は全部、不要不急でした。」と笑っていました。

 

 「不要不急」という言葉が浸透して、一番最初に無駄なものであるとの判断を受けたのは、エンターテイメントや観光・外食産業をはじめとした、アートの側面だったのではないかと思います。医療界においても、「医療にはサイエンスとアートが必要だ!」なんて、これまで盛んに言われてきたのに、今の医療界にはアートのかけらも見当たりません。本来、医療というものは、その場所に行って、安らぎや喜びを得て、そこへ行く前よりも、元気になって帰って来れる場所であるはずです。ところがいま、世界中の医療機関で、「アートが必要だ!」と唱えている医療者は、ほとんど皆無に等しいでしょう。特にテレビによく出ている「マスクをしてワクチンを撃ちましょう!」なんて誇らしげに言っているコロナ専門家のようなお医者様の中には、一人も見当たりません。病院に行くと、入り口から消毒液に包まれた無機質な建造物に、暗い表情の人々と過ごす長い待ち時間、笑顔までも覆い隠した無感情な短い診察、高額な検査を受けて、決まり切った対症療法薬を処方されて、これまた消毒まみれの薬局で薬をもらって帰ってくる。病院に行くだけで、げっそりと疲れて具合が悪くなってしまう人も多いでのではないでしょうか。これまでもその傾向はありましたが、コロナ禍でそうした医療に拍車がかかってしまいました。

 

 アートとは一体なんなのでしょうか。子どもたちにとっても、アートは不要不急なのでしょうか。

 

 コロナ禍は多くの社会問題を露呈してくれています。いま、僕らの現代社会にはっきりと姿を表したものは、まさにアートの喪失です。アートというと、すぐに音楽や絵画などの崇高な芸術を思い浮かべる方が多いかもしれませんが、ここで僕が言っているアートというものは、もっと大きなものです。

 

 コロナ禍で人類が失っているものを思い浮かべてみてください。その時に思い浮かぶもの、それがまさにアートの部分です。人と笑顔を交わす、楽しい食事をして大声で笑い合う、不特定多数の人と同じ場所に集い感動を共有する、旅をして見知らぬ人とコミュニケーションをする。サイエンスは機械との対話でも完結するものですが、アートというものは、自然や、他の人間といった生きたものとの交流がなければ成立しません。いまの人類が失っているアートとは、生きる喜びの根底にあるものです。「無駄こそ文化」という言葉がありますが、アートは論理的、理性的には無駄なものであり、あるシステムの中では不正解とされてしまうのに、人間が生きるうえでは、これ以上ないほど大切なものなのです。

 

 例えば、お弁当とお茶の材料が、まったく同じものだったとしても、コンビニで買って一人で食べる夕食と、お母さんが時間をかけてつくってくれた家族団欒の夕飯との違いは、歴然たるものがあるでしょう。生きる喜びがちがうのです。映画観賞にしても、一人で見るよりも、その喜びやつまらなさを他人と共有することが、より面白いのです。コロナ禍になって、「なんかつまらないなぁ」と感じている方も多いのではないでしょうか。その理由がアートの喪失なのです。

 

 コロナ禍はおそらく当初の予想どおり、今年の冬も来年の冬も再流行して、効くんだか効かないんだかわからないワクチンやら治療薬ができて、なんかよくわかんないなぁ。やっぱ共存するしかないのかなぁとなって、2、3年かけて原発事故のように忘れさられていくのではないかと思っています。私たちはいましっかりと、この自然界からの警告の意味を反芻して、根本原因である私たちの生活を変えていかなければならないのです。

 

 そんなコロナ禍以降の生き方として、適切な医療を選択できる親になるために、これまで書いてきた水や熱の問題に加えて、人間が生きるうえでのサイエンスとアートという点について、考えていきましょう。

 

 これからの世の中は、テクノロジーがさらに大きく発展し、サイエンスの部分の多くは、人工知能を中心とした機械が担っていく時代になり、人間がするべきことの比重がアートの側面に移っていくことが予想されます。(別の機会に書きますが、サイエンスの発端には常にアートが必要です。)

 

 特に医療の世界では、サイエンスの部分を人工知能に任せたほうが良い時代になっていくことは間違いありません。受付も会計もすべて機械化・無人化され、現在の医療の主体である、検査結果から既成のアルゴリズムに従って処方薬を出す医療は、世界中の最新の論文を網羅した人工知能のほうが、素晴らしい力を発揮してくれるでしょう。人間の医者の数はだいぶ削減されて、ながらく続いた悪しき風習である医師免許制度などの資格制度も不要となるでしょう。大昔は資格試験などなく、「私は医者です!」と手をあげて、「実際に治せる人」が医者として生きていける時代でした。つまり医療者として適切な人が、患者さんに選ばれた結果として医師として生きていくことができる世の中だったのです。これからはインターネットに検査結果と問診票を入れると適切な薬が羅列される時代が来ます。そう遠くはない未来の医者たちは、これまでの記憶力が秀でた医者ではなく、機械にはできないアートの力を備えた医者になっていくはずです。

 

 このような社会情勢は医療に限ったことでなく、教育の場にも同様の変化をもたらすでしょう。いまの学校では、記憶力や計算力を問われるようなサイエンスにほとんどの比重があり、学習塾で習ったことを再現することが得意な子の成績が評価されてきました。ところが、そうした能力の多くは、AIによって補われ必要がなくなっていきます。つまり、これからの人間は、テクノロジーの発展とともに、機械には生み出せないものを創り出すアートの能力を開拓していくことが、社会人になるうえでもっとも重要なファクターになっていくのです。

 

 子どもたちが大人になっていくとき、感覚的であれ、理性的にであれ、アートの重要性を認識しているか否かということは、人生にとって、とても大きな違いになっていきます。そのために必要なことは、必ずしもアートスクールへ通うことだけではありません。コロナ禍において心がけていくべきことは何なのか。そういった点を、これからの連載で考えていきたいと思っています。

 

 いま世の中からアートが失われています。医療者がこぞってサイエンスばかりに目を向けている。そんな時代だからこそ、適切な医療を選べる親になってほしいと願う僕は、医療者としてアートの問題について、数回にわたって考えていきたいと思います。