エビデンス

 データのトリミングの問題が指摘もされていた「ワクチン感染予防効果95%!」という初期の論文をまだ信じている人はどれぐらいいるのでしょうか。いまだにコロナの爆発がないアフリカ大陸を見ると、ワクチンしてる国ほどひどい状況に見えるのは、僕だけでしょうか?データ収集の問題だけには僕の目には映りません。

これまでのワクチン接種数

これまでの感染者数



 ひと昔前は、「エビデンス、エビデンス」と言っている医者がかっこよく見えていた時代がりました。最近は「エビデンス」と気軽に口走る人を見ると、滑稽に見えます。エビデンスなんてどうにも作れるので、たかが知れてるんです。コロナ前に「エビデンスがない」と言われ続け、マスクをする東洋人を嘲笑っていた欧米諸国の人々が、「エビデンスが出た」と言って突然マスクを推奨しだし、今度はまた、「エビデンスがなくなった」と言い出しています。エビデンスの信頼度が、ここまで低下した時代もないでしょう。

マスクってからだに良いと思いますか?

 マスクは、人間のからだにとっても、こころにとっても良いものではないということを、だいぶ多くの人が感じ取っているに違いありません。もうそろそろいい加減に、感冒症状のない人のマスクの着用はやめたほうがいいのではないでしょうか?人間の生命や幸福について考えなければならない諸問題のうちの、どれぐらいが「飛沫」といった限局的なものにあるのでしょうか?年間140万人の日本人が死ぬうち、2万人がコロナで死んだとして、そのうち何人がマスクの着用で死を免れるのでしょうか。。。その背後に隠れている他の病でなくなる人のほうが多いように僕は感じます。その真偽は、今年の日本人の超過死亡数に反映されることになるでしょう。陰トロピーが必要な呼吸を阻害し、心の陽トロピーも阻害するマスクは、現代人の心身にとって、これほど悪いものはないのではないか。と思うぐらい悪いものです。

 外で歩く時や、一人で歩くときぐらい、マスクをはずしてはいけないのでしょうか?マスクをしていない人に怒責する人は、正しいのかどうか、はっきりもしない「正解らしき信念」を、怒りや監視という武器を持って他者に押し付け侵略しているプーチンと何も変わりません。

 今回は、なぜそんな世の中になってしまったのか。つまり、飛沫という超限局的な「目に見えるもの」に囚われ、感冒に対する人間の自然治癒力や自然の回復力という「目に見えないもの」のことを忘れ、目先のものへの監視だけを過剰に強めて、見えない力の存在を信じることができなくなる、人類のこころのしくみについて、少し書いてみたいと思います。

「不安」によって助長される陰トルー(見えるもの・監視)

 呼吸も拍動もしないでいると、人間は数分で死に腐敗が始まり土に帰っていきます。自然法則のあるがままにいると、万物の物質的な「秩序・整頓」は、常に秩序を失っていく「無秩序・混沌」の方向へと進む。このときの力の方向を「陽トロピー(エントロピー増大)」と呼んできました。生物の「からだ」は、呼吸や飲食という自然法則に逆らう陰トロピーな活動を行い、からだをより新鮮な秩序のある状態に向けることで「気(ポテンシャル=仕事をする潜在能力)」を高め、生きています。一方の「こころ」は、「べき・ねば」という、自分のあるがままに逆らう陰トロピーなエネルギーから解放され、とらわれることのない、あるがままの状態(陽トロピー)になることで「ひらめき(インスピレーション)」を高めて、創造をしていきます。一方で「べき・ねば」という陰トロピーな心のエネルギーは、人間の行動を秩序立て、ポテンシャルを高めます。陰陽はどちらが良い悪いというものではありません。そのバランスが崩れたときに、人は「未病」の段階を経て、「病」になります。(詳細は陰陽トロピー参照)

 人間は陰陽バランスを崩してしまうと、悪いときに悪いものに惹きつけられる習性、「負のループ」があるという話をこれまでにも書いてきました。「不安」という感情は、「あるがまま(陽トロピー)のとらわれない心」とは逆の方向なので、陰トロピーなこころのエネルギーです。こころの陰トロピーが過剰に強くなってくると、より陰トロピーな「見えるもの」「確実そうなもの」を獲得して「安心」を得ようとします。これを陰トロピーのループを「陰トループ」と、呼ぶことにしました。この特性は人間が一刻を争う危機に直面したとき、一時的なものであったとしても、とりあえずその場をしのぐための、より確実な方法を選択して危機を回避し、生存率を上げるための重要な能力です。ところがその危機が、実際にはそんなに大したものではなかったとしても、視聴率かせぎのために、少数例でしかない衝撃的で過激な映像や情報を、繰り返し流す昨今のメディアの影響によって、実際よりも大きな危機であるかのような印象を与えられてしまうことがあります。その不安が増大しすぎて現実との乖離を始めてしまうと、さらに整頓された簡潔な情報を探し続けるという負のループが起こってしまうのです。

 極度の不安から探し求めた解決法は、とても単純(陰トロピー)なだけに、その効果(ポテンシャル=仕事をする潜在能力=気)は高いのですが、「部分」だけの一時的な解決法(対症療法)になってしまうため、本質的な「全体」の解決には至りません。「安心」というものが一時的なものでしかないという認識をもたずに、安易な情報やツールにばかり触れていると、次第に全体のバランスが崩れてきてしまいます。これは西洋医学(部分的対症療法)と漢方医学(全体的根治療法)にも同じ構造があてはまります。食養生で言えば、分子栄養学や糖質制限という「部分」にフォーカスをあてた食養生は、一時的な陰トロピーな食養生です。

陽トロピーな教育には時間がかかる

 こころの陰トロピーが増大しがちな現代生活の中で、分析や解析という秩序を生み出す陰トロピーな思考方法は、「べき・ねば」という監視を強めるだけでなく、自然のあるがままを希求するこころ、つまり自分や他人や自然などの「見えないもの」を「信じる」力を弱めてしまいます。例えば、子どものことが不安になればなるほど、子どもにとってより確実なもの(例えばキッズ携帯など)を与えることで、親は監視ツールを獲得し、「安心」を得ます。実は安心や安定というのは、陰トロピーなこころです。ところが、親が子どもの問題に秩序だち整理された簡単な答えを与えて解決してあげることは、子ども自身が自分で成長するチャンスを奪ってしまう、一時的な解決法(対症療法)でしかありません。陽トロピーなこころの働きは、まだ「見えないもの」である子ども自身の自己解決能力を「信じて」、子どものあるがままの行動を見守ってあげるというものです。子どもが靴のはき方を悩んでいるときに、親が靴を履かせてしまうような、簡単(陰トロピー)な答えを与えて解決することは、子どもの成長という「見えないもの」を育むチャンスを逃してしまい、靴のはき方を覚えることは、先延ばしにされてしまうのです。子どものあるがままを見つめる陽トロピーな教育は、どうしても時間がかかってしまうのですが、そこを信じて耐えることが教育だと僕は考えています。教育とは大人が答えを教えるものではありません。

コロナ禍は不安の増大に伴う「見えるもの」への過剰な執着

 コロナ禍の本質は、ウイルス自体が物質として「見えるもの」になってしまったことに、メディアの誇張もあいまって、人々の心が「不安」な状態に傾き過ぎてしまったことにあります。大きくなり過ぎた不安は「見えるもの」というより確実で単純な情報に目を奪われ、飛沫や抗体という「見えるもの」を追い求めるあまり、人間が本来持っている「自己治癒力」や「自然摂理」というものを「信じる」という力が弱まってしまったことによるものです。マスクは現代社会の陰トロピーを象徴するコスチュームです。呼吸による体内換気が悪くなることは、陰トロピーな活動をして気を高めることをする身体にとっては、それを阻害する陽トロピーな行為であり、一方でこころの陽トロピーも失われてしまう。これ以上ないほど、人間の心身にとって悪いものであることは、「不安」にかられ、「見えるもの」で安心を得ようと必死になっている人たちは、そのことに気づくことができません。

 新型コロナに罹った友人は、ウイルスよりも社会が怖かった。ともらしていました。多くの方が無症状であるように、ウイルス自体は、それほど強いものではないのですが、コロナ禍は「情報」に対する、人類のアレルギー反応(過剰応答)なのです。この現象は、コロナ禍以前から科学が信頼性を獲得していくのとともに、人類の意識が「見えるもの」に偏っていく状況からも、自明の経過でした。mRNAという実験段階の「見える」治療法が、イントロピープを発生させて、状況をさらに悪化させています。

分子栄養学と不安増大の関係

 糖質制限やオーソモレキュラーなど、食事を分子レベルにまで分析する栄養学である分子栄養学が、近年急速に注目されるようになった理由も、同じ現象です。もちろん日本人には鉄やビタミンDが足りないという部分的な情報は一概に悪いものではありません。けれど、不安が強ければ強いほど、人の心は「見えるもの」に向かうので、サプリメント業界は、不安を煽れば煽るほど売上が伸びる業界になってしまっているのです。

 人のこころとからだには陰陽のバランスが大切です。「見えるもの」が急速に増えてきた現代社会は、この世界の中のほんの一部しか見えていないことを忘れ、「見えるもの」だけで問題が解決できるような錯覚に陥ってしまっています。ワクチンという、もはや対症療法にもなっていないその場しのぎの対症療法で、コロナ禍が終わることは決してありません。情報に対するアレルギー反応(過剰応答)であるコロナ禍の終焉は、現代科学という「見えるもの」への信頼が、徹底的に崩壊したときにしか起こらないのです。

 分子栄養学は、科学の発展を示す素晴らしいものですが、それでもこの世界のしくみのごくごく一部しかまだ見えていません。「見えないもの」を「見えるもの」にする時間は、「見えないもの」がこの世に発生する時間の何倍もかかります。つまり、この世の中には「見えないもの」のほうが圧倒的に多く、その量は時間を経るごとに増えていくのです。不安に駆られ、「見えるもの」だけですべてが解決できるような気持ちで接していると、さらなる「安心」を求めて、サプリメントの種類や使用量が増えていきます。西洋薬などの化学物質と同様に、「部分」抽出した過剰に陰トロピーの強いものを摂り続けることは、例えるならば、体の一部の筋肉だけを訓練し続けて、体全体のバランスが崩れてくるようなものなのです。つゆくさ医院でも、卵やヨーグルトを健康食だと思って毎日過剰に食べ続けて、前腕から手背にかけての湿疹や、顔やまぶたのアレルギーが治らない人が後を絶ちません。

 分子栄養学も西洋薬などと同様に、一時的に用いることをおすすめしています。例えばある種の花粉症にはビタミンDの摂取が有効です。子どもの花粉症を治すためにビタミンDのサプリメントを摂ってみて、改善があれば、それ以降はより陽トロピーな食養生として、ビタミンDを多く含む、シラス・サケ・イクラ・きくらげ・しいたけ・まいたけなどを多く摂るようにする。という変換をすることで、より全体的な解決に結びつきます。つまり、純度(陰トロピー)が高くポテンシャルの高いもので一時的に効果を確認しながら、自然摂理にかなった陽トロピーな解決法へと徐々に変化させていく。という食養生が、心身のバランスを崩さない法則です。これはマクロビオティックの「一物全体」という考え方にもつながります。自分の中に不安の高まりを感じたら、「部分」から「全体」へと視点を広げることを意識して食養生を考えましょう。「見えるもの」だけですべてを解決しようとしている時代になってきたからこそ、「見えないもの」を「信じる」陽トロピーな精神力が、老若男女問わず、大切な時代になってきていると感じています。