アートの効用その1 ネガティブをポジティブにかえる

 

 不要不急のアートが、子どもたちにとって不要不急なのか。アートの効用その1は「ネガティブな状況をポジティブにかえることができる」ということです。

 

 20数年前、医学生だった僕はラップトップ・ミュージック*の到来に衝撃を受けて、それまで続けていたギターなどの生楽器の演奏をやめ、パソコン一台で演奏するという音楽を7、8年ほど続けていました。そんなスタイルにも身体的な物足りなさと、リアリティーのなさを感じ始めて、鍵盤楽器やエフェクターを使うようになっていた頃に、ヨーロッパツアーがありました。ある夜、ベルギーの高電圧のコンセントに誤って日本の電源を直接つなげてしまい、全ての機材が使えなくなってしまいました。電気がないと演奏ができない電子音楽家としては致命的な状況でしたが、演奏会場ごとに、その場の楽器と設備でできることを考え出して、その後の公演を続けました。結果的に演奏はとても良い反響を受け、CDの売り上げも電源が壊れてからの方が売れたのでした。

 

*ラップトップ・ミュージック:ノートパソコン(ラップトップ)などで演奏・制作された音楽。最近ではDTM(DesktopMusic)とも呼ばれる。1990年代に盛んになり、当時はパソコン一台でライブをし、生楽器には出せない音の使用が衝撃を与えた。カールステン・ニコライ、テイラー・デュプリー、池田亮司など。

 

 音楽も食べものの身土不二と同じように、その時その場で発生する音だけが持つ力や鮮度があることと共に、アートがネガティブな状況をポジティブなものに変えることができるということを実感しました。それ以降、演奏会場にパソコンを持ち運ぶことがなくなり、忘れ物をしてネガティブな状況が訪れた時には、それ以前よりも良い状況を獲得して変化することのできるチャンスだとワクワクするようになりました。

 

 病にしても、病になった原因はそれまでの生活の中にあります。ですから、「病を治す」ということは、それまで以上に健康的な生活を獲得することであり、病になるということは、より健康的な生活を発見するチャンスでもあるのです。逆に、自分自身の生活を変えることなく、薬や手術などの医療によって病が治るということは、本当の意味ではほとんどないのです。それはコロナ禍という地球の病にも通ずることです。コロナ禍以前の生活に戻ることばかりを考えて、人類がコロナ以前よりも健康的な生活を獲得することなく、コロナ禍という病から離脱することはできないのです。

 

 子どもにとっても、アートの体験は、ネガティブな環境に直面しても、自分やモノの配置とあり方を工夫することで、新しい発見や喜びを生み出せるという実感につながります。例えば、近所の公園や路上に咲く花を持ち帰って家に植えることや、ホームセンターや100円ショップで、それを何かに作りかえることを繰り返していると、自分の目の前に現れたネガティブな状況も、どうにかしてポジティブな環境に変化させていくことを考え出そうとする習慣がつくのです。それが子どもたちにとって、アートが不要不急でないと考える効用の一つです。子どもの頃から創作を続けていると、それぞれの境遇と才能の中で得手不得手を自覚し、自分なりの解決方法を見つけることができるようになっていきます。

 

 自然界が持つ生命を生み出し育む力を「ピュシス」と呼びます。人間が持つ価値を生み出す力が「アート」です。ゴミは何もしなければただのゴミですが、アートの力によってそこにはなかった新しい価値を生み出すことができるのです。親や教育者として、すべての子どもの中に備わっているアートの力を育むには、子どもが「つまらない」と感じている時間こそが、これ以上ないチャンスです。何もしなければ、つまらない時間であった時間が、ちょっとした工夫によって「楽しさ」という価値を感じることのできる時間に変えることができるのです。アートは人間が生きていくうえで、人生を楽しく、興味深くするものなのです。

 

 アートもサイエンスも発祥の起源には、「つまらない」とか「不便だ」「なんかがおかしい」といったネガティブな感情の知覚が何よりも重要です。それを感じることがなければ、アーティストやサイエンティストになることはできないので、「つまらない!」と強烈に感じることは、アーティストの資質なのです。ですから、登校拒否という苦渋の選択をするほど、学校が「つまらない!」と感じることができるのは、才能でもあるのです。そうした社会的には良くないものとされる感情を、障害にするのか才能にするのかは、その子に、あるいはその子を包んでいる大人たちにかかっています。

 

 子どもが感じる「つまらない」という感覚は、アートが発芽するサインです。けれども子どもたちはまだ未熟なので、そこから抜け出す方法がすぐに見つけられるとは限りません。そこで、大人の手助けが必要になることがあり、それこそが本当の教育のチャンスなのではないでしょうか。医療も教育も、他者にできることは、その手助けでしかありません。教育者として子どもの傍にいるときは、とにかく能動的な何かを作動させることで、世の中はこんなにも楽しく過ごすことができるんだよ。という体験をさせてあげてください。そうした人間にわき起こる不快な感情の中から「無いものを考え出す」という能力は、人工知能にはできない、人間にしかできないアートを生み出し、人生をより豊かなものにするのです。

 

 無いものを考え出す。というアートは、人間の能動的なアウトプットがなければ成立しません。アートを受動的に鑑賞することも大切ですが、それ以上に考えだそうとする能動的な時間がなければアートは始動しません。子どもが面白くなさそうにしているときに、YouTubeなどの動画を見せて、受動的な時間に費やす習慣がついてしまうと、いじめなどのネガティブな環境に遭遇したときにも、そこから自分の力で抜け出して、ポジティブに生きる方法をみつける力を、身につけられなくなってしまいます。親として子どものつまらない時間を、楽しい時間に変えてあげることができない時間、例えば朝みんなが学校へ行くまでの時間とか、夕飯をつくっている時間とか、そういう時間にはYouTubeでも良いと思います。けれど、教育者として接してあげられる時間、例えば夕食後から寝るまでとか、そういった家族内のルールをつくって、子どもに強いるだけでなく、大人たちも、子どもたちにYouTubeをさせない時間は、自分たちも努力をして子どもたちに、能動的な楽しい時間をつくってあげましょう。

 

 学校がつまらないと感じたら、学校に行かなくてもいいと僕は思っています。これだけ多くの子どもたちが登校を拒否するようになっているのは、子どもたちの変化に適応できていない学校というシステム自体に問題があると思っています。けれど僕が登校拒否の子どもたちに伝えているのは、学校に行くよりも家にいたほうが学んでいればそれでいいんだよ。ということです。学校へ行くよりも学ぶというのは、自分自身が実現したい世界のために、何かに対して能動的な関わりを持つ活動すべてです。例えば、小さいころから自分で撮った動画を編集できるようになれば、それだけで学校なんか行かなくても十分生活するだけの収入を得る職業につけるでしょう。家族旅行の動画作成なんかは、10歳にもなれば結構多くの子ができるようになります。運動をするのが楽しければ、学校休んでめいいっぱい運動すれば良いのです。

 

 教育者は誰しもネガティブな状況をポジティブな状況に変換できるアートの力を持っているアーティストである必要があります。情報を与えるだけの授業は、もはやYouTubeのほうが優れています。学校の先生もテストの単位や出席日数より、自分の授業の中で、子どもたちがどれだけ楽しませられているかに主眼をおいてもらいたい。と、学生時代からずっと感じてきました。近年、学校の先生の労働時間が医者の労働時間を超えたそうです。親からの監視が強化される中で、クソどうでもいい仕事(Bullshit Job)が増えた先生方には、どうか今の環境を抜け出して欲しいと思っています。コロナ禍という情報による被害の中で、そのクソどうでもいい仕事の限界がきて、教育の世界に何かの革命が起こることを願っています。僕自身、親としても、子どもがつまらなそうにしている時にこそ、楽しむことを発見することの手助けをしてあげたいと思って、子どもたちとの限られた時間を過ごしています。今のコロナ禍を「つまらないなぁ〜」と思う力こそが、このネガティブな状況をポジティブなものに変える原動力となることを願っています。