家にいて、娘たち二人(5歳・10歳)を見ていると、台風やインフルエンザで、学校が休みになることを心待ちにしていた自分の幼少期を思い出します。別に学校が極端に嫌いな訳ではありませんでしたが、やっぱり学校はあんまり多くないほうがいい。という思いがいつも根底にあったように思います。今の学校教育の拘束時間は長すぎるんじゃないでしょうか?多様化してきている子どものニーズに合わせて、塾へ行くなり、ゲームするなり、運動するなり、もう少し子どもたちに能動的な時間を増やしてあげて欲しいと感じます。
コロナ以前の現代社会について不可解に感じていた現象の一つに、学校の先生の平均労働時間が医師を超えたという現象がありました。長く働いたから素晴らしいとは決して思わないし、先生の労働時間が増えたところで、学校教育の質はそれに比例して向上したのだろうか?この現象はいつまで続いて、何を意味しているのだろうか。ということを、満員の通勤電車なんかと同じように疑問に思っていました。
今、娘たちが楽しそうに自宅や公園でクリエイティブな活動をしているのを見ると、そもそも学校の役割ってのは、なんだったっけ?と考え直してしまいます。
これまでの学校の授業やテスト、あるいは入学試験というのは、「すでに答えが決まっているもの」を答える能力です。それも必要なのは分かりますが、生活をしていて要求されることは、答えが決まっていない問題がほとんです。その多くは、人間関係にまつわる善悪の判断、それとイノベーション(新たなものを創造し、変革で経済や社会に価値を生み出し、革新をもたらすこと)です。
時代は変化して、答えの決まってる問題は、いくらでも簡単に調べられる世界になってきました。学校で教わらなくても、答えの決まっている問題が好きな子どもはそれをよっぽど効率よく調べることができる時代に変化したのです。もっと言えば、「アレクサ」や「オーケーグーグル」が腕時計に常駐して瞬時に答えてくれる時代はそう遠くはありません。
つまり、識字率を上げるとか一般教養をつける。みたいな決まっている答えを教える教育は、昔に比べて需要が低くなっています。iPadに任せておけばある程度できるようになるし、それが得意な子どもや親は、学校に行ってみんなと足並み揃えてやるよりは個々人で進めるほうが、これまでの時代以上に効率が良くなっています。
一方で子どもによっては、答えが決まってない問題を解決することのほうが得意な子どもたちがたくさんいます。そういう子どもたちは、幼少期にいたずらが好きです。いたずらは、社会が与える答えから「結果をずらす」能力です。これは「モノマネ」が面白いのと同じ精神構造で、結果として繰り広げられる事象が、想定していたものと「ずれる」から面白いのです。
実際に子どもの頃いたずらが好きだった幼馴染たちを思い出してみてください。進学がうまく行かなかったとしても、ビジネスや医療などのさまざまな分野で才能を発揮して、いわゆる成功をしている友達が多いはずです。そういう能力こそが、AI(人工知能)が普及してくるこれからの人間に必要とされることです。これは自然と科学の関係ととても似ています。自然と科学が根本的に異なることは「無から有を生み出す力(Physis:ピュシス)」です。科学というのは、すでにあるものを修飾することが得意です。一方で自然は、何もない状態から何かを生み出すことができます。科学が遺伝子のしくみをどんなに解明しても、自然の力を利用することなく完全な生命を作り出すことはできません。AIにできなくて、これからの人間に求められるのは、そうした無からの発想、イノベーションの能力でしょう。
これから、オンライン授業が増えて、情報提供という側面の授業の質は向上し、子どもたちと先生たちの拘束時間は減っていくでしょう。勉強の能力が高く、それを好きな子どもが好きな時に好きなだけ勉強をするようになる環境になっていくと思っています。学校に求められる機能は、電子端末の供給と最低限の説明と確認作業は必要かもしれませんが、それ以上に電子端末ではできない、答えが用意されていない活動になってくることを願っています。学校という場所は、本来子どもの「権利」であって、「義務」ではない場所であるべきです。「登校拒否」という言葉がなくなり、「帰宅拒否」という言葉が生まれるような、行きたい子どもが行きたい時に行く魅力的な場所になって欲しいと思います。出口の見えなかった学校教員の労働時間の是正も進めていただき、教育の本質を取り戻していただきたいです。労働時間が長く疲れ切って、イライラしている寝不足の医者に手術をされたくないのと同様に、疲れ切った学校の先生に自分の子どもたちの教育を任せたくはありません。先生の労働時間の短縮こそが、教育の質の向上につながるのではないかとすら思います。