つゆくさ医院には、登校拒否や発達障がいと学校で呼ばれてしまうような子どもたちが、たくさん来院しています。以前から僕は、そのような社会への適応能力が(現在のところ)低い子どもたちのことを、新人類だと感じています。現存の古い社会システムの価値観にある大人たちから見ると異常であるように見えているだけで、実際にはこれからの時代は、コミュニケーション能力が低いことが、その子の才能を活かすための能力になることがあるだろう。ということです。
例えば天文学者は、コミュニケーション能力の低い人の方が向いていると言われています。それは、社会とのコミュニケーションがうまくて、社会の人とうまくいってしまうと、地球の外側のことへ注ぐ興味やエネルギーの余裕がなくなってしまうからです。つまり、その子どもの持っている能力の代償に、コミュニケーション能力が欠けているというよりは、コミュニケーション能力が乏しいことが、その子どもにとっての能力となるのです。
現代社会は、モータリゼーションとグローバリゼーションによって、一人一人の距離が遠くなりました。例えば、夫婦や家族であれば、ひと昔前、車のない頃であれば、兄弟家族の友達はだいたい知っていて、どんな文化圏で生活し、どんな価値観の中で生きているのかがわかりました。ところが、今は自分の配偶者や兄弟であっても、その友達や文化などは知る由もありません。つまり、お互いの文化や価値観を理解するなんてことはどんどん難しくなってきています。
ところが、人間の悩みは昔と変わらず、自分を理解してほしい、他人を理解できない。つまり善と悪の話です。現代は情報の肥大化に伴って、価値観の多様化も進んでいます。そのような状況下で、相手の気持ちを理解しようとか、されようとかを渇望する欲求こそが、現代社会における生活に支障をきたす可能性があるのです。だからこそ、発達障がいや適応障害の子どもたちに認められる「他者の気持ちがわからない」というコミュニケーション能力の欠落は、現代社会において「初めからそれを期待しない」ことで、できないことにエネルギーを割かず、彼らの特性にあった生活に対して能力を注ぎこめる。という意味で、これからの時代を生きる新人類なのだと考えています。実際に、いま世界でもっとも発達障がいと診断される子どもが多いのは、世界の秀才が集まっているシリコンバレーだと言われています。僕が診断名の「発達障害」を「発達障がい」と書くのは、そういった敬意を示しているからです。
もちろん、他人の理解をあきらめるというのは「自分勝手に生きる」という考え方とは全く違います。他者を無視するのではなく、他者を理解することは不可能に近いから、自分は自分に従う。ということです。これは「情報」よりも「野性」を大切にするという先日のお話と通じます。
僕はこれからの時代、「妨害なき相互浸透」が進んでいけば良いと考えています。単純に言えば、他人の価値観に侵入して他人を動かそうとすることをしない、つまり他人に迷惑をかけることをしなければ、自分の善意にしたがって何をしても良い。という価値観です。お互いの価値観を表現したり、議論を交わすことも自由にして交換・意思疎通(相互浸透)をするものの、互いの完全理解は最初から諦め、自分の価値観を相手に押し付けることはしない。来るものは拒まず、去るものは追わず、そんなことがこれから進んでいけば良いと思っています。(これは「アンビエント・ミュージック」の概念でもあります。そんなことはまたの機会に。)
学校の未来もそうあって欲しいと願っています。来るものは拒まず、去るものは追わず。
子どもたちの「権利」としての学校!
はしゃげ子どもたち!