<地球は風邪をひいている>

 

 とても喜ばしいことに新型コロナウイルスに有効なワクチンが開発されたようです。大したワクチンは開発されないだろうと思っていたので、この西洋医学の進展を、人類が奢ることなく、謙虚に適切に、科学的に利用されていくことに期待をしています。ただし、ワクチンができたからといって、問題の本質が変わった訳ではありません。今回は、より一歩踏み込んで、科学あるいは西洋医学の適正利用について考えていきましょう。

 

 私たちのからだが風邪をひいたとき、私たちの免疫細胞をはじめとしたあらゆる細胞が、自分たちの身体を守るために、力を合わせて活動、すなわち労働をします。漢方治療では、病原体が何であろうと、その風邪の「症状」から、心身「全体」をみて、自己治癒力を助ける漢方薬を用います。その効果から、その風邪の根本的な原因や、食養生を考え、再び同じ風邪にかからないように調整していきます。その治癒過程で、適切な西洋薬(おもに抗生剤。重症時は免疫抑制薬)を用いることも、数%ぐらいの割合で必要になることがあります。けれど、最初の三日間、以前書いた「三日ルール」の間は、西洋薬の出番はないことを再確認してください。三日目で改善の兆しがある場合で、60歳以下で大きな基礎疾患がない方は、病院に行く必要は本当はありません。けれど国際社会の監視の目から、日本が誹謗中傷されることを懸念して、病院というウイルスが蔓延する場所に、さらなる感染のリスクを侵してまでも、感染者の実数把握に寄与したいという方が、病院に行かれることに対しては、僕はとがめるつもりはありません。

 

 感染者の実数把握よりも大切なことは、ウイルスを避けることや、発生後の症状を抑えることではありません。それよりも、風邪をひかない心身、ひいてもすぐに回復できる心身の獲得を目指すことです。風邪をひいた原因を考え、生活を整える。風邪は「気」をつければひかないことができるし、ひいてもすぐに適切な養生をすれば、自分で治すことができます。

 

 「部分」を追いかけることに盲目的な社会では、札幌や電車の換気にみるように、飛沫にばかり目が行っているために、身体が冷えてしまうことによる風邪の可能性という「全体」をみれていません。換気ばかりに意識を向けて、からだが冷えてしまうほうが、風邪になる確率を社会は考えていません。今年の冬の外出には、今まで以上に防寒対策に気をつけてください。「気」をつければ風邪をひかない。というのは、そういうことも含んでいます。

 

<「病」が治るということ>

 

 風邪に限らず、「病が治癒する」ということは、病以前の生活よりも健康的な生活を実現することで、初めて達成されます。ガンにもガンの効用、風邪には風邪の効用というものがあります。今こそ新型コロナ発生という症状の原因を、私たち人類は考えるべきだと僕は考えています。西洋医学や科学全般には、未だにそういった観点が乏しいことは否めません。それは「部分」をみる手法の宿命なのです。アレルギーはアレルゲンのせい、風邪はウイルスのせい。そう考えがちですが、アレルギーも風邪も、かからない人がいるのだから、問題はその人の身体内にあるのです。その問題とは何か。そこを考察することを、今の世界は忘れています。

 

 いま、地球という身体は、これまでにない種類の風邪をひいています。その身体の中で、仲間である細胞同士が、銃を持ちあって威嚇しあい、監視をして萎縮させあっているのは、この風邪にとって、もっとも悪い状況です。想像してみてください。自分の体内に凶悪なウイルスが侵入しているときに、自分の肝臓と胃腸の、どちらが良い悪いと戦い合っている状況を。これは日本でも、会社でも家庭でも同じことです。争うことや監視し合うことは、お互いの体力をもっとも消耗させ、その集団全体のパフォーマンスを低下させます。夫婦でお互いの文句を周りの人に言い合っていることは、二人の尊厳や信頼をお互いに失い合う行為です。「べき、ねば」に占拠されていく脳が生み出す社会は、監視カメラと匿名の誹謗中傷を増幅させ、自然の摂理を乱してまで効率と経済性を優先し続けてきました。僕はそこに今回のコロナ禍という病の原因があるのではないか、と考えています。監視の反対は、信じることです。監視のために増えた「クソみたいな仕事」が、人類のエネルギーを浪費しています。

 

 いま、僕らが構成要員である地球という共有の身体は風邪をひいています。免疫細胞のひとつひとつである一人一人が、地球のために動き出さないと、この地球の風邪は治せません。例え瞬間的にこの風邪を治せたとしても、対症療法を続け、今のまま変わらない心身では、同じような風邪をひき続けてしまいます。

 

 この世界は、僕らが思っているよりも、ずっとずっと深淵なものです。人類の叡智がどんなに大きくなっても、自然の摂理はあまりにも壮大で、奇跡があふれかえっています。不健康になると、生きていることや存在していること自体の奇跡を忘れて、世の中の悪いところ、自分に「ないもの、失うもの」ばかりへ目を向けてしまうのが人間の習性です。他人や自分を監視して、ありもしない正解があるかのように妄想しながら責め続ける。そんなことに地球という身体の免疫細胞のひとつである一人一人がエネルギーを割くよりも、自分の仕事が地球の健康に寄与していることを喜び、隣の仲間が困っているのを助けられた喜び、自分の仕事以外の仕事ができた喜びが生まれるような免疫活動をすることのほうが、この地球という身体全体にとっても、免疫細胞である自分自身にとってもよっぽど健康的です。この地球の風邪を治しましょう。まずは自分の目の前から、健全な免疫活動をはじめようと僕は思っています。

 

 アメリカ西海岸に音楽演奏のツアーで行った時、とある静かな海岸に友達が連れて行ってくれました。「ここから先は、プライベートビーチなんだよ。プライベートビーチって変だよね。いつから誰がみんなの地球だったはずの土地の所有権を決めたんだろうね。」

 

 地球は誰のものでもなく、人類のためのものでもなく、みんなのものです。そこにつくりだされた人種や地位といった優劣の虚像。私たち人間は、幸か不幸か知恵を授かっています。その宿命が、自分たち自身を滅ぼすためのものであることは、できれば願いたくありません。知恵が生み出す、人類のさらなる幸福な世界を僕は願っています。

 

<ワクチンの適正利用>

 

 科学の適正利用の話に入りましょう。

 

 科学とは素晴らしいものである反面、その方法論上の限界があることをこれまでにも書いてきました。科学というものは、良くも悪くも「部分」をみる学問です。その科学から生まれたワクチンについて、その適正利用とはどういうことなのか。ということについて考えてみましょう。

 

 まず、細菌も含めた微生物と薬の関係は、薬剤耐性(注釈:ある特定の薬を使用しすぎることによって、その標的であった細菌やウイルスの遺伝子が変化して、その薬が効かない種類が誕生してしまい、その薬剤が効かなくなってしまうこと)の問題が必ず生じてきます。自然の摂理は、その一構成要員でしかない人類の叡智を簡単に凌駕してしまうほど、単純で非力なものではありません。

 

 インフルエンザウイルスは、一人の人が罹患して治癒するまでに、そのウイルス型が変化していることもあるほど変異しやすいウイルスです。そのため人間の免疫は、そのウイルスパターンを記憶できず、毎冬に感染が流行するのです。新型コロナも変異のしやすいウイルスです。このような変異しやすいウイルスの場合は、薬剤耐性獲得の速度が早くなります。この薬剤耐性の問題で、日本が世界の在庫の多くを不適切に使用していたことで、世界中から非難を浴びていた某抗インフルエンザ薬に対する耐性は、現在10%程度まで進んでいることが確認されています。

 

 新型コロナのワクチンの登場は、これ以上ない朗報ですが、ワクチンの適正利用について人類は、しっかり考えた方が良いでしょう。まず、しっかりと認知して欲しいことは、新型コロナにしても、インフルエンザにしても、年齢層によっては、それほど致死率が高くはない感染症だということ、さらに変異しやすいウイルスであること、また科学至上、もっとも早く認可された治験の少ないワクチンであること。これらを踏まえると、死ぬリスクが低い年齢層は、可能な限りその摂取を温存することが、科学の科学的な適正利用です。60歳以下の方は、発熱後3日経っても改善の兆しが見られない場合のみ、近隣の新型コロナやインフルエンザに対応してくれている病院に行きましょう。ワクチンを使わなくても治る病に対して、不適切に依存することは、地球全体の風邪にとって、成長のチャンスを失ってしまうことだということを忘れないでください。

 

 ワクチンを打ちましょうと勧告するのは簡単でも、ワクチンを打つのはやめましょう!というのは、医療訴訟上(つまり監視機構上)、とても難しいことです。また製薬会社も新薬の特許が有効なうちに、少しでも多くの在庫を販売したいのは、経済優先の資本主義社会の中では当たり前の心情です。その人たちを責めるつもりも毛頭ありません。いま、僕らの地球は風邪をひいているのです。僕は健康に生きたいし、家族にも友達にも知らない人にも、せっかくの人生と出会いなので幸福に行きて欲しい。

 

 これだけの人類史上の革命的な出来事が起こっているときは、資本主義が終わるなんていうパラダイムシフトが起こるかもしれません。むしろそれを実現することこそ、この地球の風邪を治す方法なのではないかと感じています。いま、情報を動かすだけの非物質的労働によって、経済が動くシステムが構築されつつあります。適材適所で働きたい人が働きたいことをする。働けない人を助ける。働く「べき」、働か「ねば」という労働の概念から、働き「たい」人が「働ける」という世界への変革は、今だからこそ実現しうるかもしれません。ついこの前までは、そんなことを期待すらしませんでした。今こそ、人種や国境を超えた、本当の意味で新しい生活様式を、と僕は思っています。