陰陽トロピーに関して、3回に分けて連載しています。(初回2回目
胕に落ちたという方と、わかりにくいという方がいらっしゃったので、
一度、簡単な表にまとめました。物理学のエントロピーは、「無秩序な度合」のことです。
この物理法則を理解していただくと、陰陽の関係がわかりやすくなると思うのでご参照ください。

 

陰トロピー

陽トロピー(=エントロピー増大)

秩序・収縮・新鮮(呼吸・食事)

からだ(ポテンシャル↑・気↑)

見えるもの

純度の高いもの(精製食品・化学薬品)

人工的・機械的・目的を持った行為

整理・整頓・きちんと

ロゴス(見えるもの)

監視・保障

無秩序・拡散・発酵・腐敗

こころ(インスピレーション↑・ひらめき↑)

見えないもの

純度の低いもの(自然食品・漢方薬)

自然のまま・あるがまま

混沌・煩雑・でたらめ

ピュシス(見えないもの)

信頼・愛

 からだの陰トロピーがポテンシャル(=仕事を可能にする潜在能力)を高めるのに対し、
 こころの陽トロピーはインスピレーション(=ひらめき)を高める。

 *どちらが良い悪いでなく「バランス」が重要。

 

「こころ」の「ひらめき」を失う陰トロピー

 「録音をする」「カメラで録る」といった「目的」をもつ行為は、「陰トロピー」な精神活動であるために、こころの陽トロピーが抑制され、「ひらめき」が抑制されてしまいます。

 物質は自然のあるがままでいると、無秩序なります(エントロピー増大の法則≒陽トロピー)。「からだ」はそれに対し、呼吸や食事という鮮度と秩序(陰トロピー)を保つ活動をし、陰トロピーが高まるほど、ポテンシャル(気=仕事を可能にする潜在能力)が高まります。一方の「こころ」は、何ごとにも囚われない自然のあるがままの状態(陽トロピー)を求め、陽トロピーが高くなるほど、「ひらめき」を生み出す能力が高まります。この陰陽のバランスが崩れると「病」になるのです。陰陽はどちらが良いというものではなく、バランスが重要なのです。

 例えば、精製されたもの(陰トロピー)である白砂糖は、そのポテンシャルも高いので、低血糖になって瀕死状態の人には、これ以上ない良薬になります。しかし、ポテンシャルが高いが故に、それだけを取り続けてしまうと、陰陽バランスの歪みを修正することが難しくなるため、瘀血(*注釈)をはじめとした様々な不調へとつながってしまいます。一方の「こころ」は、あるがまま(陽トロピー)の状態は、既知からの自由、恐怖からの開放の状態なので、「ひらめき」がうまれやすくなります。ところが、呼吸や食事に始まり、社会活動をするためには、「べき・ねば」という陰トロピーな状態も必要になるのです。こうした陰陽の動的な陰陽の相対バランスによって、人間の心身は機能しています。

*瘀血(おけつ):血の流れが悪い状態のこと。冷えや白砂糖、鎮痛薬、ステロイドといった薬剤の長期投与によって現れる証。頭痛・胃痛・生理痛・肩こり・シミなどの原因になる。

免疫力は高すぎも低すぎも良くない

 世の中では、免疫力が高いほどからだに良いというように考えられがちですが、免疫力は高すぎても、低すぎても、そのバランスが崩れると病になります。花粉症などのアレルギーや、リウマチなどの膠原病、感染症などでのサイトカインストーム(*注釈)などは、攻撃しなくて良いものを攻撃しすぎてしまう、つまり免疫力が高すぎる状態の病です。これは、主に陰トロピーが強すぎることによって発生する「熱」の作用によるものです。陰トロピーはポテンシャルを高めるので、そのエネルギーが強すぎると「熱」を発生します。具体的な例では、過剰な怒りを覚えた時に、人間の体温は上昇します。これは動物でも同じことですが、動物は不必要にその「熱」を長く持ち続けたりはしません。ところが、人間は言語という能力を獲得してしまったが故に、「怒り」という感情を、言語で反芻しつづけてしまうことができるのです。そのため、ストレスがたまる人は、帰宅してもそのことを言葉で考え続け、陰トロピーが高まり続け、気が高まり、「熱」を発生してしまうのです。その熱が、粘膜面の初期反応を担う免疫細胞たちにエネルギーを注ぎすぎて攻撃しすぎてしまうのです。

*サイトカインストーム:細胞が炎症などを起こすために放出するサイトカインが、必要以上に放出されて、炎症の嵐が起きること。多くの場合、死に至るほど炎症が起こる。

 一方で、免疫力が弱すぎることによって起こる感染症は、破壊しなければならないものを破壊できない病です。呼吸や食事による陰トロピーが衰え、気も少なくなってくると、外敵の侵入に対して攻撃をするための熱を産生できずに、増殖と侵入を許してしまうのです。

 インフルエンザウイルス感染症が、若く免疫力の高い人が高熱を出せるのは、若い人の免疫力が強いからです。その生体反応を解熱剤で抑えてしまうと、免疫力が抑制され重篤化してしまいます。新型コロナでは、高齢者に死亡者の多かったα型のウイルスは、免疫力の弱い人が重症化しましたが、雨季から夏にかけて発生したδ型のウイルスでは、免疫が弱い人に加え、湿熱(*注釈)によって免疫力が過剰になっている50代、60代の死亡者も増えました。更年期は腎の陰性作用によって熱を冷やす作用が弱まり、アレルギーや高血圧を発症しやすい年代でもあるのです。このように、免疫力というのは、強ければ良いものではなく、そのバランスが大切なのです。

*湿熱:おもに動物性脂肪の過剰摂取や、遅い時間の夕食などによって、体内に脂や熱がたまった状態のこと。

 こうしたバランスの中で考えると、現代社会は物質もこころも情報も、陰トロピーに偏りすぎていると言えます。機械化によって秩序(陰トロピー)を与えられた単一の製品や食品が大量生産され、均一な遺伝子と性質(陰トロピー)をもつ遺伝子組み換え作物を餌としている家畜を過剰に摂取し、「こころ」の情報源であるニュースはどんどんと短く簡潔(陰トロピー)になりました。もちろん、その変化が一概に悪いものだとは言いません。大切なのはバランスなのですが、現代社会は、効率化による巨大化を追求し続けた結果、陰トロピーに偏りすぎてしまったのです。けれど、社会の陰陽も、ひとつの大きな波のように周期的にそのバランスを整えながら揺れています。世の中の陰トロピーが極まりきったコロナ禍後の世界は、社会に陽トロピーを取り戻す流れが自然発生してくるのではないかと僕は考えています。逆に言えば、そのためにコロナ禍が訪れ、社会が止まることの知らなかった陰トロピーな世界を、修正するような役割を担っていると考えることもできます。低いところに水が流れるように、ウイルスが発生したのかもしれません。世の中は、そうした物質的バランスによって成り立っている。というのが、陰陽の法則です。

「安心」の陰陽トロピー

 「安心」というものも、「監視」と「信頼」という真逆の陰陽によって得られる2つの安心があります。監視や保障・契約という目に見える形やロゴス(論理)によって得られるものは陰トロピー、信頼・究極には無条件に信じることによって得られるものは陽トロピーな安心です。監視による安心や安定を求めるこころは、陽トロピーを失い、ひらめきや愛を失っていきます。子供携帯が普及し、警備会社や保険会社、製薬会社が長者番付に増えていることは、現代社会の陰性化を象徴しています。「見えるもの」に安心を求める社会です。そこへ現れたコロナ禍は、ウイルスが「見えてしまった」ことによる情報の陰トロピーが増大し、不安を極限まで高めてしまいました。社会はこの世の中には、見えるものより見えないもののほうが圧倒的に多いことを忘れてしまいました。自然(ピュシス)への畏敬の念を忘れ、コロナウイルスという見える「部分」(陰トロピー)への意識が高まりすぎてしまったことが、コロナ禍の本質です。ウイルス遺伝子という「部分」が見えても、そのウイルスと人間や動物との相互関係という「全体」は、まだまだ見えていません。だから「部分」だけを見続ける科学は見誤るのです。コロナ禍はコロナウイルス自体の脅威よりも、「見えてしまった」ことによる、人類のロゴスに対するアレルギー反応の象徴なのです。

アートは陽トロピーを予感させるメディエーター

 人間にとって空の美しさにかなうアートはありません。アートというものは、こころが本来、陽トロピーな状態を渇望していることを、人間に気づかせてくれるメディエーターのようなものです。「記録する」「作品化する」という、人間特有の目的を持った行為が入ったアート作品は、完全な陽トロピーにはなり得ず、作品化することで陰トロピーな要素を必ず持ち合わせてしまいます。アートという「ひらめき」を必要とする行為は、本質的には目的のない無駄なものであることが必要不可欠なのですが、アートはピュシスをトリミング(陰トロピー)する行為なので、ピュシスそのものより陽トロピーになることはないのです。

 アートは、人間のこころを陽トロピーに傾けるためのツールです。ロゴスの要素が強い世界で生きている人にとっても、アートに触れることで陽トロピーな状態になると、「ひらめき」が生まれやすくなります。ところが、普段から目的を持ち、効率化された陰トロピーの強いシステムの中で生きていると、アートの発端である「ひらめき」が湧きにくなり、アートを堪能する陽トロピーな状態にもどりにくくなってしまいます。だからこそ、こころの陽トロピーを取り戻すアートに触れることが重要なのです。

 家賃も高く人口密度と感染確率の高い都会に住み、毎朝毎晩、満員電車で通勤することや、繁華街に集まって呑み歩くことが、多くの人にとって本当に必要なことだったのか、と考えるようになってきた昨今の世界。何が本当に無駄なのか。無駄とは何なのか。無駄が必要不可欠なアートの世界に触れながら、本当に無駄なことは何であるのかを、ロゴスの世界を超えた世界で体感することが、これまで以上に重要な、「陰トロピー」から「陽トロピー」への時代になってきたのです。是非、目的のない無駄なアートの時間を過ごしてみてください。