「無駄こそ文化」の無駄ってなに?
病や症状というものが、人に修正すべき生活を教えるのと同じように、地球の風邪であるコロナ禍は人類に修正すべき生活を教えてくれています。そのひとつに「何が本当に無駄なのか」という問題があります。マスクやワクチンは無駄だったと振り返る時期がくると僕は思っています。ワクチンとマスクのために出された膨大なプラスチックゴミが、私たちにとってコロナよりもだいぶ大きな問題である地球環境に与える影響を心配しています。人類にとっての「無駄」とは何なのか。価値観のパラダイムシフトが、いま起こっています。
無駄とは本来、役に立たないものです。「無駄こそ文化」という言葉には、「文化」というものが、人間が生きていくうえで必要不可欠なものであることを、当然のこととしてわかっていながらも、「文化はお金にはなりませんよね〜、無駄ですよね〜」というアイロニーが含まれています。いまの都会からは、そうした経済的に無駄な場所や時間が排除され、姿を消しました。東京には無駄が少ない。ここで言う無駄は、経済の観点から見た「無駄」のことです。
新しく見えてきた「無駄」
今から100年前、産業革命によって機械が人間の労働を奪うと危ぶまれ、世界恐慌が起こったさなかに、経済学者ケインズが有名な予想をしました。労働の機械化による生産性の向上がこのまま進めば、2030年には、人間の労働が週15時間になると予想したのです。人類の生産性は、彼の予想を少し上回るほど達成されましたが、人間の労働時間は100年前よりも増えています。その原因は、「働かなければならない」という思い込みが、監視に対抗するための監視や、需要を無理矢理増やすためのマーケティングといった無駄な仕事(ブルシット・ジョブ)を増やしてしまったためだと言われ始めています。ここで言われる「無駄」とは、何も生産していない三次産業の一部のことで、より良く生きるためというよりは、お金のためにやる仕事のことです。現代はそうした仕事が増え、無駄な仕事こそ給与が高い傾向にあるので、優秀な人材がそこへ集まり貧富の差が拡大して、結果的にエッセンシャルワーカーの方々の労働時間が増えてしまっているのです。
先進国に限られたことかもしれませんが、少なくともそういう世界で生活をしている人間は、もうこれ以上発展してどれだけの意味があるのだろうかと考えるほど、十分すぎる経済発展を遂げています。取り返しのつかないような自然破壊を推し進めて、仕事以外の貴重な時間を削ってまで、いま以上に経済発展することが、もはや「無駄」になってきているのではないでしょうか。原子力発電所という次世代に負債を残す環境破壊をしてまで、経済を発展させることに「無駄」を感じる人も、建設当初に比べたら、だいぶ増えてきているのではないでしょうか。一番貴重な「生きる時間」を削ってまで経済を発展させなくても、週15時間の労働で生活はできる。それよりも働きたい人は働く。そういう世界に少しずつ移行していくことを僕は期待しています。
こうした世界の変容にともなって、アートの体験は、人生を豊かにするために欠かせないものになっていきます。経済という数値化できる目的のために動くことは、ある意味、誰にでもできることでもあります。ところが、そうした数字のために過剰に働くことが「無駄」になってくる世界が訪れたとき、数字以外の価値がなんであるのか。ということは、数字以外の世界での喜びを知らない子どもたちは、生きる目的を見失い路頭に迷ってしまいます。現実逃避の結果、アルコールやギャンブルの中毒になる人が多いことも歴史的な事実です。
<無駄を考えるきっかけ>
どんな生き方が良い!なんて子どもたちに押しつけるつもりはありません。ただ、様々な価値観やシステムの変換が起こった後に生きる子どもたちには、「何が無駄なのか」ということを自分自身で考えられる能力が必要になってくるでしょう。「無駄」について考えるためには、無駄を経験することも必要です。けれどその前に、人間にとっての価値を生み出す能動的な営みである「アート」に触れることで、数値化することのできない生きることの価値や喜びを体感することが必要なのです。そうした体験を通して初めて、無駄について多面的に考えることができるようになると、僕は考えています。
テクノロジーの発達によって、家庭でのお手伝いが減っています。地域の人々と無償で交流する、楽しいお祭りも姿を消しつつあります。無駄のパラダイムシフトが起こっている時代に、「無償の喜び」というものを地域や家庭の中で体験することは、その子の生涯にとって大きな糧になるでしょう。能動的な無駄の中に楽しみを見出すには、形に残らない「遊び」が一番です。形に残すという時点で、その行為は「目的」を持ってしまうからです。すでに与えられているモノや環境を変化させて、新たな価値を生み出すことがアートです。ステイホームなら料理が最高。かくれんぼや鬼ごっこも最高。公園や家の限られた環境の中で、自分たちでゲームを考え出して楽しむのも良いでしょう。子どもに携帯を渡して受動的な情報に晒しておいても、子どもは勝手に育ち、貴重な幼少期をあっという間に通過して「無駄に遊ぶ能力」が低下してしまいます。子どもに何かをさせてあげることには、時間も忍耐も必要ですが、子どもの能動性を引き出すために手助けをすることが教育(大人の医療もそうです)だと思って、子どもたちが小さいうちに、たくさん遊ばせてあげてください。
GDP(国民総生産)の観点からすれば、休日に家庭菜園の野菜で自炊して、家族仲良く自宅近くを散歩しながら自然鑑賞を楽しむ人よりも、不眠症やアレルギーで、無数の薬を飲みながら、なんらかの裁判の真っ最中な人のほうが、国にとっては価値のある生き方です。コロナ禍のいま、生きていくうえで、無駄と言われ削減されている、アートを共有する場や、人と笑顔や酒を交わしながら語らうことの必要性を感じている人、そういう時間がなきゃ生きてる意味がない!と思う人は、僕だけではないはずです。人類にとっての本当の「無駄」とはなにかを考え直す時代が到来しているのです。その中で担うアートの役割は、大きなものだと感じています。